KANAERUは誰もが働ける環境作りをサポート

はじめまして。
わたしは代表の向田と申します。

これから、NPO法人を立ち上げた経緯とこれからの活動の方針をお知らせいたします。

キャッチコピーにもあるように、当NPO法人は【「気になる子」をほっとかない】というvisionがございます。まだ、スタート地点に立ったばかりのvisionですが、ここに来るまで、数々の紆余曲折がございました。

メインは児童養護施設出身者の教育、雇用、成長、安定、自立を支援するPROJECTとしていましたが、考えれば考えるほど、議論すれば、するほど、世の中には様々な要素が渦巻いていて、支援の方法や対象が一つにまとまらないのでした。そこには外的要因も内的要因も含めた障害が多々ありました。

もともと、児童養護施設のことをなぜ考え始めたか、長くなりますがお話しさせてください。

わたしは、大阪の西成区というところで生まれました。

(厳密に言えば浪速区ですが、幼少時代のほとんどは西成区でした)

物心ついた時には、母親はいませんでした。そして、2,3歳の子供が昼間っからお酒を飲んでいる大人たちの足元でちょろちょろ遊んでいたのです。

西成区という場所は有名な場所で、わたしが幼少時代を過ごした40年以上前は今よりさらに、スラム街でした。

父親はアルコール依存症で、片足が悪く、とてもまともな仕事につける状態ではありませんでした。そういう生活に嫌気がさしたのか、母親はアパートから夜逃げ同然でいなくなったと聞きました。私自身は父親から母親の悪口ばかり聞かされていたので、次第に母親という存在を憎むようになりました。

父親はどうやって暮らしていたかというと、拾ってきた物を路上で販売して、小銭を稼ぐという生活をしていました。

わたしは、毎日そんな父親の自転車の後ろに乗って、暮らしていました。

その日暮らしなので、家も定まっていません。安宿に泊まれる日はそれなりに収入があったときですが、収入がないときは、材木置き場で養生マットにくるまれて寝かされ、独りぼっちにされ、その場で父親の帰りを待ち、パン屋からもらってきたパンの耳を食事にしていました。

今考えると、2,3歳の子供をそんな場所に一人にさせて、よく事故や誘拐、生き別れにならなかったと思います。わたしを父親は絶対に話しませんでした。わたしのことを可愛がっているというよりは、自分の生きている証のように執着していました。

その時に、ちらっと聞いたのは、何度もいろんな人に、わたしを施設に入れるように勧めたようです。その時、施設とは何かピンときませんでした。施設=怖いところみたいなイメージがありましたが、あの時言われていた施設が、児童養護施設なんだと思いました。

結局、小学校に行くころには西成を出て、大阪の東住吉区というところに住むことになり、父親は障がい者ということで、生活保護をもらうことになりました。

しかも、小学校にいつ行かせればいいかわからず、2年生になってから、初めて小学校に行きました。

今も問題になっていますが

生活保護のお金を父親はパチンコと酒につぎ込んでいました。

支給されたその日はおいしいものを食べることができるのですが、だんだんとお金が無くなって、学校に支払うはずだった給食代も払えず、周りに借金して支払いや、また酒を買っては飲んだくれて、暴れまわっていました。

アパートもまともなところではなく、保証人などいらないようなボロアパートでお化け屋敷に住んでいると、友達にいじめられもしました。

小学生高学年にもなると、わたしも自我が強くなって、どうしてこんな生活をしなければいけないんだろう、どうして施設に預けてくれなかったのだろう。世間一般の片親は母親だけというパターンが多いのに、どうしてわたしだけ、父親なんだったんだろう。と自分の人生に疑問を持ち始め、中学生、高校生と父親より力が強くなってきてなんでもできるようになると、早く父親から離れて、一人で生活したくなりました。

高校3年の夏休み中にアルバイトをして貯めたお金でわたしは卒業と同時に大阪を出て、北海道に行きました。あてもなく北海道に行って、競馬馬の牧場で働きました。

それからはずっと一人で、必死に生きて働いて、結婚もしました。

社会に出てからは苦しかったこともありましたが、それなりに楽しいこともありました。

生かされているという現状で、精一杯生きていました。

結局、競馬の牧場は長く続かず、人生の大半はホテルマンをしていました。

その間に離婚、再婚も経験しています。

若いときは必死に働いて、稼いで会社の成績を上げ、自分の給料も上がって、美味しいものを食べて、遊んで、また働いてが社会への還元だと思っていました。

自分の気持ちが180度変わったのは、ある事件をニュースで見てからでした。

2010年大阪西区で3歳児と1歳児が放置されて餓死した事件でした。

今、ここでこの事件の内容を詳しく書くことは、おぞましいので辞めておきますが、あの時はかなりのショックを受けました。

自分も当時、3歳と1歳のこどもがいたからというのもありますが、この事件の本質を考えていました。

事件の本質の前に、どうしてこんなに人は自分が気になる情報を深く知ることができるのかということを考えました。

昔と違うところは、そうです、インターネットが発達しているからです。

今、インターネットであらゆる世界の情報をとることができるので、自分の興味があることを調べようと思ったら、どれだけでもインターネットで情報を集めることができるのです。だからテレビを見なくても、新聞を読まなくても、世の中で起きている事件を深く知ることができるのです。これは、ある意味、とても恐ろしいことだと思います。

今までは知らないですんでいたことが、何でも知ることができるのですから。

話を戻して、この事件の本質に関しては、いろんな学者が色々述べています。

一般人であるわたしが単純に人間として思ったのは、苦しかっただろう、辛かっただろう。どうしてみんな同じように生まれて、幸せな子もいれば、辛い思いをしなければいけない子もいるのだろう。

餓死はしていないしパターンも違うが、わたしもそうなる可能性はあった。

この子たちがたとえ生きていたとしても、周りのいじめにあうかもしれない。

けれど、生きてさえいれば、わたしみたいに、苦しみも味わえれば、楽しさ、幸せも味わえるかもしれない。

いろんな感情が渦巻いて、この事件を知ったとき涙がポロポロでてきてしばらく落ち込んでしまいました。

やがて、自分がこういう社会に何ができるだろう。こういう社会だとしても、苦しむこどもを一人でも少なくするためには何ができるだろうと考えました。

そんなこと、自分のために働いていかにサラリーを手にするかしか考えていない時期では、とうてい思いつかないことだと思います。

ホテルマンをしながら毎日そういうことを考えていました。

児童養護施設というものに興味がわき、いろいろコンタクトを取り、調べました。

2010年大阪西区で3歳児と1歳児が放置されて餓死した事件でした。

今、ここでこの事件の内容を詳しく書くことは、おぞましいので辞めておきますが、あの時はかなりのショックを受けました。

自分も当時、3歳と1歳のこどもがいたからというのもありますが、この事件の本質を考えていました。

事件の本質の前に、どうしてこんなに人は自分が気になる情報を深く知ることができるのかということを考えました。

昔と違うところは、そうです、インターネットが発達しているからです。

今、インターネットであらゆる世界の情報をとることができるので、自分の興味があることを調べようと思ったら、どれだけでもインターネットで情報を集めることができるのです。だからテレビを見なくても、新聞を読まなくても、世の中で起きている事件を深く知ることができるのです。これは、ある意味、とても恐ろしいことだと思います。

今までは知らないですんでいたことが、何でも知ることができるのですから。

話を戻して、この事件の本質に関しては、いろんな学者が色々述べています。

一般人であるわたしが単純に人間として思ったのは、苦しかっただろう、辛かっただろう。どうしてみんな同じように生まれて、幸せな子もいれば、辛い思いをしなければいけない子もいるのだろう。

餓死はしていないしパターンも違うが、わたしもそうなる可能性はあった。

この子たちがたとえ生きていたとしても、周りのいじめにあうかもしれない。

けれど、生きてさえいれば、わたしみたいに、苦しみも味わえれば、楽しさ、幸せも味わえるかもしれない。

いろんな感情が渦巻いて、この事件を知ったとき涙がポロポロでてきてしばらく落ち込んでしまいました。

やがて、自分がこういう社会に何ができるだろう。こういう社会だとしても、苦しむこどもを一人でも少なくするためには何ができるだろうと考えました。

そんなこと、自分のために働いていかにサラリーを手にするかしか考えていない時期では、とうてい思いつかないことだと思います。

ホテルマンをしながら毎日そういうことを考えていました。

それから6年経ちました。

もがいてもがいて、やっと出た結論を2017年、スタート地点に立たせることができました。

なぜ6年かかったかは、また、おいおいお話ししますが。

一人でも苦しむこどもを少なくするためには、教育が必要。

そして、児童養護施設出身者の就職や自立に対する支援が必要。

こどもに限らず、いろんな苦しんでる人たちを助けるためには、社会の繋がりが必要。

みんながいろんなことを知り、何かしてあげたいと思い、実際に何かをしてあげる社会の仕組み作りが必要だと思いました。インターネットを使って情報発信を常にしていくことによって、支援が広がり、スピーディーに進むと考えましたが、やはり直接的な支援が必要だと思いました。

結局は、18歳になってからの就職支援をするためには、子どものうちからサポートをしていく。そしてサポートが必要なのは、児童養護施設だけではなく、障がい者施設の子どもたちや、貧困家庭や両親に何らかの問題があっての不登校児、一般に学校に通っている障がいのある子や外国人の子など、「気になる子」すべてに対してだと考えました。

自分自身、父親が子どもの時から足に障がいがあり、学校や家でいじめにあっていたのを聞いたし、それがもとで人生うまくいかなかったと感じていました。わたしも中学の時に不登校になったので、ちょっと人と違う子ども、ちょっと人と違う家庭の子どもの気持ちはわかるつもりです。

まずは、「放課後等デイサービス」次に「フリースクール」と順番に運営をしていって子ども達をサポートしていきたい。ただ、預かるのではなく、将来に向けての教育をしていきたい。

就労のために、本人の特性を生かしていろんな道の選択肢を見つけてあげるのはもちろんですが、人間として大切な物・・・思いやりと命の大切さを教えて、どんな時でも人に対する思いやりを持つ人材を育てて、世の中におくりだしたいと思いました。

わたしは最終的には自分の得意分野である、北海道でのリゾート運営で社会貢献をする仕組みを作りたいと思っていますが、今できることはまずは京都を含めた関西圏で、「気になる子」を集めてサポートしていきたいと考えています。

 

一人でも苦しむこどもが減りますように、一人でも社会に出た子が救われますように。

 

社会に行かされている一員としてしっかりと責任を果たしていこうと感じています。

2017年吉日

寄付のお願い

私たちの事業は、利益が出たら、放課後等デイサービスや児童養護施設などへのサポートとして使われます。また、非営利団体ですので運営資金以上の寄付が集まった場合、様々な支援をすることが可能です。放課後等デイサービスに関しては、運営資金は補助がでるのですが、開業準備にお金がかかります。フリースクールに関してはすべて寄付でまかなわないといけません。将来わたしたちが作ろうとしているポータルサイトは、支援をしている団体などの情報を一か所に集めることにより、支援が行きわたるように、スピーディーになるように、支援をかわいそうな人たちでのほどこしなどではなく、もっとポジティブに考えることができる環境を作ることができます。

FUTURE OF DREAM

インターネットが発達してまだ20数年しかたっていませんし、日進月歩、技術や発信元などの状況は変わっています。タイムリーに社会貢献情報を集めるために、インターネットを利用することができます。あなたの寄付が、こどもたちを救い、やがて社会の一員になり、循環することになります。当法人はまだ認定NPO法人をとっていませんので、税制の優遇はございませんが、必ず認定をとらせていただきます。口座は二つしかございませんので不便をかけます。近々、クレジットでの寄付機能をつける。予定です。

銀行振込

三井住友銀行 京都支店
普通口座 9340350 
口座名義 特定非営利活動法人KANAERU
トクヒ)カナエル

ゆうちょ銀行

記号14450
店名 四四八(ヨンヨンハチ)
普通預金 4519277
口座名義 特定非営利活動法人KANAERU
トクヒ)カナエル

賛助会員として継続的に寄付をくださる場合は、毎月1,000円以上の寄付をお願いいたします。匿名のご希望がなければ、賛助会員として公開させていただきます。匿名のご希望があれば、お名前は伏せさせていただきます。

一般的な寄付の場合は金額は関係ございませんが、ご寄付の際は、できるだけお問合せフォーム、もしくはmukaidas@gmail.com または08042314706向田までご連絡ください。

お手数ですがご氏名、ご連絡先(ご住所、お電話番号、メールアドレス)、入金日および寄付金額をご連絡ください。銀行振込の特性上、ご入金の使途をそのままでは確認できませんので、お手数をおかけいたしますがご協力のほど、お願い申し上げます。

 

寄付をくだされた方には、会報を送付させていただきます。